2013年6月21日金曜日

織田信長の死にまつわるアレコレ

  
 先日、「世界不思議発見」という番組で、「ヤスケ」という名の黒人侍従が織田信長に仕えていたことが述べられていましたが、その「ヤスケ」が、実はイエズス会の回し者であった・・・という説を唱える人もいます。

 曰く、当時の日本は「銀本位制」であり、日本の「金」の多くがイエズス会によって海外に流出していたのを、海外情勢に聡い織田信長は「金本位制」に切り替え、「金」の流出(不平等貿易)を防ごうとした。

 で、それを知ったイエズス会は売国?キリシタン大名と通じ、明智光秀を使って本能寺にて織田信長を暗殺したのだ・・・と。

 確か?こんな筋書きですが、ワタシには事の真偽は分からないのでナンとも言えません。ただ、かなり前にTVで放送されていた「歴史ミステリー」という番組の「Youtube」の動画を見る限り、別な解釈もありそうです。



歴史ミステリー 織田信長・本能寺の変の黒幕は誰


 つまり、「朝廷」を蔑ろにしたので織田信長は「誅殺」された・・・という見方もあるワケですが、ひとつ解せないのは、


織田信長の遺体は何処へ?


・・・という点です。「暗殺」にしろ「誅殺」にしろ、織田信長を殺すことが目的であれば、その遺体を隠す必要性があるのか?

 もちろん、家臣によって持ち去られるということも考えられなくもありませんが、それほど大切な主君であれば、必ず後世の子孫に伝える記録を残すハズです。埋めっ放しで、「はい、それまwでwよw。」・・・とは考えられません。

 即ち、歴史の表舞台から隠す必要があったと考える方がスッキリするワケで、織田信長殺しは「大きな歯車」の一部であったとワタシは推理します。

 で、「大きな歯車」とは何なのか?・・・を検証してみるに、「歴史ミステリー」の動画を見る限りでは、「天皇」の地位を守ろうとする勢力(近衛家)が動いたと察せられますし、何より「後水尾天皇」の位牌が、織田信長の首塚と同じ寺に存在することを「偶然」として片付けることはできません。


後水尾天皇 - Wikipedia

 後水尾天皇(ごみずのおてんのう、慶長元年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。

略歴

 後陽成天皇はかねてから第1皇子・良仁親王(覚深法親王)を廃して、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいた。だが、関ヶ原の戦いによって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。

 最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。

 慶長16年(1611年)3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日に即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。


 織田信長の「祟り」を沈めるために「首塚」にはヒイラギの木が植えられたとの解説ですが、「本能寺の変」は1582年に起きていますから、当時の「天皇」は先々代の「正親町天皇」ということになります。


正親町天皇 - Wikipedia

 正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。

即位

 弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達はすでに貧窮していた。戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した。

さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。


織豊政権との関係

 朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、戦国大名の織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した。

 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させたその一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。

 元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。

 豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。当時、秀吉は中国・朝鮮や東南アジアへの進出という壮大な野望を抱いていた(文禄の役)。

 明を征服した暁には「叡慮」を明に移し、その後の「日本帝位の儀」をはじめとした朝廷人事についても構想していたとされる。この計画は朝鮮出兵での失敗によって頓挫したものの、その後も皇室と織豊政権の相互関係は続き、結果的に皇室の権威は高まった。

 天正14年(1586年)、孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。文禄2年(1593年)1月5日に崩御した。


 そこで再び疑問なのですが、織田信長の「誅殺」を企てたのが「正親町天皇」&「近衛家」だとするならば、なぜ関係の無い「後水尾天皇」の位牌が、織田信長の祟りを鎮めるために後年に寺に安置されたのか?

 それを紐解く鍵が、「後水尾天皇」と先代の「後陽成天皇」の生涯に渡る確執に隠されているように思えます。


後陽成天皇 - Wikipedia

 後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱を和仁(かずひと)といい後に周仁(かたひと)と名乗った。

略歴

 後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府の開始にまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。

 二十五箇条の覚書によれば文禄の役では秀吉が明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、政仁親王か智仁親王を日本の天皇にしようとした。

 秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させている。

 慶長8年(1603年)に、徳川家康は征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く。朝廷権威の抑制をはかる幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。慶長14年(1609年)に宮中女官の密通事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代に厳罰を要請している。

 これに先立って後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者とした。ところが秀吉が死ぬとこれを嫌って弟宮である八条宮智仁親王への譲位を望むが、廷臣や家康に反対される。

 関ヶ原の戦い後、後陽成天皇は家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第3皇子・政仁親王を立てる。

 慶長16年、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して、仙洞御所へ退く。だが、後水尾天皇とも上手く行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。元和3年(1617年)に崩御、宝算47歳。


 ここまでで言えることは、信長と秀吉の朝廷に対する路線には大きな変化は無いということです。と、いうことは、もし豊臣秀吉が主君信長の暗殺の黒幕だとしたら・・・つまり朝廷と組んでいたとしたら、朝廷に対する態度も変わっていたハズであり、尚且つ「権力」の速やかな掌握のためには、織田信長の遺体を隠す必要性がありません。

 明智光秀は織田信長の「首印」を挙げられなかったが故に、反逆行為(下克上)を正当化する機会を失い、明智軍の士気も上がらず、大急ぎで引き返してきた秀吉軍に討たれてしまうワケですが、それを考えると、秀吉が信長「誅殺」に加担していたとは考えられず、ひとつの可能性として浮かび上がるのは、時間稼ぎのために誰かが信長の遺体を隠した・・・という見方です。

 つまり、明智光秀自身が嵌められていた?可能性があり、どこかの誰かが最初から明智光秀を討つ予定だったのが、秀吉が予想外に早く中国地方から引き返して来たので予定が狂ってしまった・・・。

 本来の予定であれば、光秀を討ち取った後に信長の遺体を見つけたことにする手はずだったのが、秀吉の予想外の行動で、こちらも機を逸してしまったワケです。

 信長の家臣が、逆臣光秀に「首印」を挙げられることを恥として遺体を隠したのであれば、忠臣秀吉が敵を取った暁には、隠しておいた信長の遺体を丁重に弔うことを望むハズです。

 にも拘らず、信長の遺体が表れないのはどういうことなのか?信長の遺体を隠した人物が信長暗殺の首謀者格だと考えれば辻褄が合います。


さて、それは誰でしょう?


 駿河の国(静岡県)の西山本門寺にある織田信長の「首塚」が本物であるとすると・・・。





人間ナメんなよ!


でわっ!